夜の九時をすぎると、この家は急に静かになる。
朔を寝かしつけて、足音を立てないように廊下を戻る。食洗機の低い音と、洗面所で茉央が歯を磨く音だけが残っている。リビングの照明は、もう半分落としてある。
この時間に、明日の準備をする。いつからか、それがわたしの担当になっていた。担当、と決めた覚えはない。気がついたら、そうなっていた。
準備といっても、やることはだいたい決まっている。茉央の時間割を見て、教科書を入れ替える。体操服が洗濯かごに入ったままになっていないか確かめる。朔の着替えを三組、名前を書いた袋に詰める。水筒を二本洗って、伏せておく。
それから、コルクボードを見る。
冷蔵庫の横に、コルクボードが掛けてある。引っ越してきた年に、わたしが取り付けたものだ。学校のプリント、園のおたより、ピアノの月謝袋、スイミングの進級表。この家に入ってくる紙は、だいたいここに集まる。
その夜も、いつもどおり、上から順に見ていった。
給食だより。今月の献立。スイミングの振替のお知らせ。歯科検診の問診票。その下に、うすい茶色の封筒が、画鋲で留まっていた。
校外学習費 集金袋。
封筒に印刷された枠のなかに、芦沢先生の少し右上がりの字で、日付が書き込まれている。
九月二十二日(火)までにご提出ください。
時計を見た。九時十四分。
今日が、その火曜日だった。
誤解のないように書いておくと、わたしは、この封筒のことを忘れていたわけではない。
先週の金曜日、茉央のランドセルの底から引っぱり出して、ここに貼ったのはわたしだ。貼りながら、来週の火曜までだな、千五百円だから小銭を用意しておこう、と思った。思ったことまで、はっきり覚えている。
ただ、そのあと、土曜に園の写真販売の申込書が来た。日曜に町内会の回覧板が来た。月曜に献立表が来て、今日、歯科検診の問診票が来た。紙は毎日、上から重なっていく。新しいものが、古いものを隠していく。
コルクボードというのは、そういう形をしている。あとから来たものが手前に出て、先に来たものが奥に沈む。締切が近い紙ほど、見えなくなる。よく考えたら、いちばん見えていてほしいものが、いちばん下にある。
それに、その週わたしが頭に入れておかなければならなかったのは、封筒だけではなかった。木曜は朔の園で身体測定があるから、脱ぎ着しやすい服を着せること。金曜は茉央が図書の本を返す日。個人面談の希望日は、第三希望まで書いて来週の月曜までに出すこと。
どれも、紙のどこかには書いてある。ただ、書いてあることと、必要なときに思い出せることは、まったく別のことだ。
そして、あの封筒のことを知っていたのは、この家でわたしひとりだった。わたしが思い出さなければ、この家の誰も思い出さない。いつのまにか、そういう状態になっていた。
玄関の鍵が回る音がした。九時半すぎ。耕平が、自転車のライトを手に持ったまま入ってくる。
「ただいま。……どうした」
わたしは封筒を持ったまま、ボードの前に立っていたらしい。耕平は今日、久しぶりの出社日だった。夕方に打ち合わせが延びて、帰りが遅くなると連絡が来ていた。上着を脱ぎながら、まだ会社の顔をしている。
ひととおり事情を話すと、耕平は日付をのぞきこんで、それから言った。
「明日の朝、俺が持っていこうか。茉央と一緒に行けば、昇降口で渡せるだろ」
責める言葉は出てこなかった。なんで言わなかったの、とも、言ってくれればやったのに、とも言わない。そのかわり、耕平はすこし考えてから、こう続けた。
「俺さ、この紙、たぶん見たことないと思う」
その一言で、ずっと言葉にできなかったことの形が、急にはっきりした気がした。
耕平にやる気がないわけではない。わたしがだらしないわけでもない。ただ、この封筒は、貼られた瞬間からずっと、わたしの頭のなかにしか無かった。頭のなかにあるものは、他の人には見えない。見えないものは、思い出しようがない。
忘れたのではなく、はじめから、ひとりで持っていた。それだけの話だった。
いままでわたしは、これを自分の不注意だと思っていた。付箋を貼ればいい。スマホのメモに書けばいい。もっと早く準備すればいい。やり方が悪いのだと思っていた。
でも、たぶん、そうではなかった。
「だいじょうぶだよ」
振り返ると、茉央が歯みがきを終えて立っていた。口のまわりが、まだ少し濡れている。
「せんしゅう、りくとくんもおくれてもってきてたもん。せんせい、いいですよーって言ってたよ」
そうなんだ、と言いながら、わたしはすこし笑ってしまった。八歳のほうが、大人よりずっと落ち着いている。
しらすが、コルクボードの真下でまるくなって寝ていた。この子だけは、紙が何枚重なっていようと関係がない。
翌朝、耕平は封筒を上着の内ポケットに入れて、茉央と一緒に出ていった。二人の足音がエレベーターのほうへ消えたあと、わたしはもう一度、コルクボードの前に立った。
画鋲を抜いて、紙を一枚ずつ数えてみた。十一枚あった。
十一枚のうち、耕平が一度でも見たことのある紙は、何枚あるだろう。
数えるのは、やめておいた。
その週末、耕平が食卓にスマホを置いて、こう言った。
「ちょっと、試してみたいものがあるんだけど」
