「ちょっと、試してみたいものがあるんだけど」
土曜の朝、そう言うと、紗和は洗い物の手を止めて、すこし警戒した顔をした。無理もない。俺が「試したい」と言い出すときは、だいたい何かを買っている。
今回は買っていない。スマホに入れただけだ。いえのーと、という名前らしい。木曜の夜、帰りの電車で見つけた。
正確に言えば、探した。「学校 プリント アプリ」という、われながら情けない言葉で検索した。夢中になって、乗り換えの駅をひとつ乗り過ごした。
火曜の夜のことが、ずっと引っかかっていた。あの集金袋の封筒と、コルクボードの前に立っていた紗和の顔。
俺は仕事で、十人ほどのチームの進行管理をしている。案件の情報がディレクターひとりの頭のなかにしかないと、その人が休んだ日にチームが止まる。だから全部、誰でも見られる場所に出しておく。当たり前のことだ。十年、それをやってきた。
それなのに、家に帰ると、紙がコルクボードに貼ってあった。
気づいていなかったというより、家のことは家のことだと思っていた。仕事のやり方を持ち込む話ではない、と。でも、あの夜の紗和は、まさに「ひとりの頭のなかに全部がある」状態そのものだった。
画鋲を全部抜いて、ダイニングテーブルに紙を並べた。十一枚あった。
朔が「なにしてるの」と寄ってきて、いちばん上の紙を持ち上げようとしたので、しらすの隣に座らせた。
一枚目は、茉央の学級だよりだった。A4の裏表。
スマホのカメラを向けて、撮る。やったのは、それだけだ。
一度目は、天井の照明の影が紙の真ん中に落ちて、撮り直しになった。紙の端を手で押さえて平らにして、真上から構える。二度目はきれいに入った。
数秒して、画面に一覧が出てきた。
十月二日(金)運動会。持ち物は体操服、紅白帽、水筒、お弁当。 十月五日(月)代休。 十月十六日(金)校外学習。しおりと雨具。
一枚の紙から、七つ出てきた。日付と、予定の名前と、持ち物が、それぞれ別のものとして並んでいる。
「……へえ」
紗和がうしろから画面を覗きこんで、それから言った。
「そこ、ちがう」
十月五日の代休が、十月六日になっていた。
もとの紙を見ると、印刷では「10月6日(火)」となっていて、その上に横線が引かれ、芦沢先生の字で「5日(月)」と手で直してある。画面のその項目には、確認をうながす印がついていた。タップすると、撮った写真の該当部分が拡大で出てくる。AIは、印刷された文字のほうを読んでいた。
「手で直したところは、読めないんだな」
「そうみたい」
俺は日付をタップして、五日に直した。三秒で終わった。
正直に言うと、俺はここで少し安心した。仕事で新しいツールを入れるとき、いちばん困るのは「間違っているのに、間違っていることが分からない」やつだ。これは、登録する前に一覧が出て、自信のない項目に印がついて、その場で直せる。全部を見直す必要はなくて、印のついたところだけ確かめればいい。
勝手に入るのではなく、確認してから入る。その順番なら、使える。
「それ、自信がないところだけ印がついてるの?」
紗和が横から画面を指さした。そう、と答えると、紗和は少し黙ってから言った。
「じゃあ、全部を見直さなくていいんだ」
そのとき初めて、紗和の肩が下がったように見えた。
二枚目からは早かった。園のおしらせ、スイミングの振替、歯科検診の問診票、ピアノの発表会の日程。三十分ほどで、十一枚のうち八枚がスマホのなかに移った。
園のおしらせを撮ったとき、朔が椅子によじ登って画面を覗きこんだ。
「さくの?」
持ち物のところに、朔の名前がついていた。自分の名前が画面に出ているのが、よほど嬉しかったらしい。しばらく指でつついていた。
紙のまま残ったのは三枚だ。町内会の回覧板と、写真販売の申込書と、今月の献立表。回覧板は次の家に回すものだし、申込書は紙で出すことになっている。献立表は、紗和が「これは貼っておきたい」と言った。
コルクボードが、急に広く見えた。
ふと思いついて、先週の集金袋の封筒を探した。もう提出してしまったので、手元にはない。
あれも、金曜の夜に撮っていれば、火曜の欄に残っていたはずだった。そう考えると、あの夜の紗和に、少し申し訳ない気持ちになった。
茉央がやってきて、空いた場所に自分の絵を貼った。魚らしい。
「……でも」
紗和が、皿を拭きながら言った。
「わたしが読み上げて、耕平が入力する、でもよかったんじゃない?」
たしかに、それでも結果は同じになる。予定はカレンダーに入るし、持ち物も残る。
でも、それだと紗和がもう一度、十一枚を全部読むことになる。読んで、覚えて、口に出して、俺に渡す。そのあいだ、情報はやっぱり紗和の頭のなかを通っていく。
「それだと、また紗和の頭のなかを経由するだろ」
紗和は、しばらく黙っていた。食器を拭く手が止まっていた。
「……そっか」
それから、ちいさく笑った。
「じゃあ、お母さんにも見せたいな、これ」
