紗和の視点

6文字だけ送った

去年の運動会、母は一時間早く校門の前に立っていた。電話で伝えた予定が、途中で少しずつ形を変えたからだ。今年は、六文字のコードをLINEで送った。五分後に電話が鳴った。

夕方のキッチンで、電話を耳に当てながらスマートフォンを見る母親と、そばでプリントを持って見上げる娘

「おばあちゃん、うんどうかい、みにきてくれるかな」

 日曜の夕方、茉央がそう言った。テーブルで、運動会のプログラムを眺めながら。

 母は、電車で四十分のところにひとりで住んでいる。去年も来た。おととしも来た。毎年、来てくれる。

 ただ、去年は一時間早く来た。

 わたしが電話で「九時から」と言ったのを、母は「八時に着いていればいいのね」と受け取って、誰もいない校門の前に立っていた。八時半にわたしが着いたとき、母はもう、折りたたみの椅子を出して座っていた。

「早く来ちゃったのよ。いいのいいの」

 母はそう言って笑っていたけれど、十月の朝は、まだ寒い。

 あとで聞いたら、母は七時半の電車に乗ったのだという。間違えたくなかったから、早めに出た、と。

 間違えたくなかったのは、たぶん、わたしに迷惑をかけたくなかったからだ。そう考えると、あの一時間は、わたしが作ったものだった。


 電話で予定を伝えるのは、いつも少し緊張する。

 母はメモを取る人だ。電話の横に、いつもボールペンとチラシの裏が置いてある。わたしが言ったことを、母はそこに書く。

 でも、書いたものは、どこかへ行く。冷蔵庫に貼られたり、新聞と一緒に片づけられたり、別の紙の下に沈んだりする。わたしが先週、まさに同じことをやったばかりなので、母を責められる筋合いはまったくない。

 紙に書いて渡すというのは、渡した瞬間がいちばん濃くて、そこからだんだん薄くなっていく。距離が離れていれば、なおさらだ。

 それに、母は聞き返さない。何度も聞くのは迷惑だと思っている。だから、少しあやふやなまま電話を切って、足りないところを自分で埋める。埋めた部分が合っているかどうかは、当日まで誰にも分からない。

 耕平が、スマホを持ってきた。

「これ、招待できるみたいだよ。人数の制限もないって」

 画面には、六文字のアルファベットと数字が並んでいた。


 母に電話をかけて、事情を話した。

「アプリ? わたし、そういうのはねえ」

 予想どおりの反応だった。母は、スマホで写真は撮るし、LINEも使う。ただ、新しいアプリを入れるとなると、途端に身構える。「登録」とか「アカウント」という言葉が出てきた時点で、電話を切りたくなるらしい。

 去年、乗り換え案内を入れてあげたときも、最初の三十分は「いいわよ、時刻表があるから」と言い続けていた。今は毎日使っている。

「メールアドレスとか、いらないの」

「いらない。この六文字を打つだけ」

「……それだけ?」

「それだけ」

 耕平が、受話器に届くくらいの声で「お義母さん、六文字打つだけなんで」と言った。母は「耕平さんがそう言うなら」と、急に素直になった。娘の言うことは信用しないのに、婿の言うことは信用する。

 LINEで六文字を送った。既読がついて、しばらく何もなかった。五分ほどして、電話が鳴った。

「入れたわよ」

 母の声は、少し得意そうだった。


「これ、十月二日の九時からって、ちゃんと出てるのね」

「うん」

「体育館じゃなくて、校庭ね。……あら」

 母が、画面をスクロールしている音がした。

「朔くんの、水筒のことまで書いてあるのね。木曜は、園で身体測定だから、脱ぎ着しやすい服。ふうん。茉央ちゃんは、金曜に図書の本を返す日」

 わたしは、うん、とだけ答えた。

「紗和」

「なに」

「あなた、これ全部、ひとりで覚えてたの」

 台所で、水を出しっぱなしにしていたことに気づいて、わたしは蛇口を閉めた。

 母に「大変ね」と言われるのは、実はちょっとこわい。大変だと認めてしまうと、もっと大変になる気がしていた。だから今までは、なんとかなってる、と答えてきた。

 母だって、わたしを育てていたころは、同じことをしていたはずだ。連絡帳と、電話と、冷蔵庫に貼った紙で。それでも母は、あのころのことを一度も大変だったとは言わなかった。わたしが言わないのも、たぶん母から受け継いだものだ。

 でも母は、大変ね、とは言わなかった。

「じゃあ、当日のお弁当は、わたしが作っていくわ。おにぎりと、卵焼きと、あとは唐揚げでいい?」

「……いいけど、そんな」

「もう入れたから」

「あと、これ、わたしも書きこめるのね」

「うん」

「じゃあ、椅子を持っていくって入れておくわ。去年、紗和が立ちっぱなしだったから」

 覚えていたのか、と思った。わたしは、自分が立っていたことすら忘れていた。

 電話を切って画面を見ると、十月二日の欄に、母の名前で「お弁当(おにぎり・卵焼き・唐揚げ)」と「折りたたみ椅子」という予定が増えていた。


 その夜、わたしはカレンダーを開いて、十月二日を見た。

 運動会。九時開始。校庭。体操服、紅白帽、水筒、お弁当。そして、母のお弁当。

 知っている人が、ひとりから、三人になった。

 ただ、そこまで見て気がついた。当日、誰が何時に家を出て、誰が朔を見ていて、誰がどこで場所を取るのか。それは、まだどこにも書いていない。

 わたしの頭のなかにすら、まだ無かった。

この話に出てきた機能

家野家メモ

  • 離れて住む家族に口頭で予定を伝えると、相手はあやふやな部分を自分で埋める。埋めた内容が合っているかは当日まで誰にも分からない。
  • 招待にメールアドレスの交換が要らないと、アプリに慣れていない親世代でも入りやすい。打つのは6文字だけ。
  • 共有した相手が自分で予定を書き込めると、頼む側の手間も減る。「お弁当を持っていく」が口約束ではなく予定として残る。