「おばあちゃん、うんどうかい、みにきてくれるかな」
日曜の夕方、茉央がそう言った。テーブルで、運動会のプログラムを眺めながら。
母は、電車で四十分のところにひとりで住んでいる。去年も来た。おととしも来た。毎年、来てくれる。
ただ、去年は一時間早く来た。
わたしが電話で「九時から」と言ったのを、母は「八時に着いていればいいのね」と受け取って、誰もいない校門の前に立っていた。八時半にわたしが着いたとき、母はもう、折りたたみの椅子を出して座っていた。
「早く来ちゃったのよ。いいのいいの」
母はそう言って笑っていたけれど、十月の朝は、まだ寒い。
あとで聞いたら、母は七時半の電車に乗ったのだという。間違えたくなかったから、早めに出た、と。
間違えたくなかったのは、たぶん、わたしに迷惑をかけたくなかったからだ。そう考えると、あの一時間は、わたしが作ったものだった。
電話で予定を伝えるのは、いつも少し緊張する。
母はメモを取る人だ。電話の横に、いつもボールペンとチラシの裏が置いてある。わたしが言ったことを、母はそこに書く。
でも、書いたものは、どこかへ行く。冷蔵庫に貼られたり、新聞と一緒に片づけられたり、別の紙の下に沈んだりする。わたしが先週、まさに同じことをやったばかりなので、母を責められる筋合いはまったくない。
紙に書いて渡すというのは、渡した瞬間がいちばん濃くて、そこからだんだん薄くなっていく。距離が離れていれば、なおさらだ。
それに、母は聞き返さない。何度も聞くのは迷惑だと思っている。だから、少しあやふやなまま電話を切って、足りないところを自分で埋める。埋めた部分が合っているかどうかは、当日まで誰にも分からない。
耕平が、スマホを持ってきた。
「これ、招待できるみたいだよ。人数の制限もないって」
画面には、六文字のアルファベットと数字が並んでいた。
母に電話をかけて、事情を話した。
「アプリ? わたし、そういうのはねえ」
予想どおりの反応だった。母は、スマホで写真は撮るし、LINEも使う。ただ、新しいアプリを入れるとなると、途端に身構える。「登録」とか「アカウント」という言葉が出てきた時点で、電話を切りたくなるらしい。
去年、乗り換え案内を入れてあげたときも、最初の三十分は「いいわよ、時刻表があるから」と言い続けていた。今は毎日使っている。
「メールアドレスとか、いらないの」
「いらない。この六文字を打つだけ」
「……それだけ?」
「それだけ」
耕平が、受話器に届くくらいの声で「お義母さん、六文字打つだけなんで」と言った。母は「耕平さんがそう言うなら」と、急に素直になった。娘の言うことは信用しないのに、婿の言うことは信用する。
LINEで六文字を送った。既読がついて、しばらく何もなかった。五分ほどして、電話が鳴った。
「入れたわよ」
母の声は、少し得意そうだった。
「これ、十月二日の九時からって、ちゃんと出てるのね」
「うん」
「体育館じゃなくて、校庭ね。……あら」
母が、画面をスクロールしている音がした。
「朔くんの、水筒のことまで書いてあるのね。木曜は、園で身体測定だから、脱ぎ着しやすい服。ふうん。茉央ちゃんは、金曜に図書の本を返す日」
わたしは、うん、とだけ答えた。
「紗和」
「なに」
「あなた、これ全部、ひとりで覚えてたの」
台所で、水を出しっぱなしにしていたことに気づいて、わたしは蛇口を閉めた。
母に「大変ね」と言われるのは、実はちょっとこわい。大変だと認めてしまうと、もっと大変になる気がしていた。だから今までは、なんとかなってる、と答えてきた。
母だって、わたしを育てていたころは、同じことをしていたはずだ。連絡帳と、電話と、冷蔵庫に貼った紙で。それでも母は、あのころのことを一度も大変だったとは言わなかった。わたしが言わないのも、たぶん母から受け継いだものだ。
でも母は、大変ね、とは言わなかった。
「じゃあ、当日のお弁当は、わたしが作っていくわ。おにぎりと、卵焼きと、あとは唐揚げでいい?」
「……いいけど、そんな」
「もう入れたから」
「あと、これ、わたしも書きこめるのね」
「うん」
「じゃあ、椅子を持っていくって入れておくわ。去年、紗和が立ちっぱなしだったから」
覚えていたのか、と思った。わたしは、自分が立っていたことすら忘れていた。
電話を切って画面を見ると、十月二日の欄に、母の名前で「お弁当(おにぎり・卵焼き・唐揚げ)」と「折りたたみ椅子」という予定が増えていた。
その夜、わたしはカレンダーを開いて、十月二日を見た。
運動会。九時開始。校庭。体操服、紅白帽、水筒、お弁当。そして、母のお弁当。
知っている人が、ひとりから、三人になった。
ただ、そこまで見て気がついた。当日、誰が何時に家を出て、誰が朔を見ていて、誰がどこで場所を取るのか。それは、まだどこにも書いていない。
わたしの頭のなかにすら、まだ無かった。
