七時半の校庭は、まだ湿っていた。
夜のあいだに降りた露で、白線の粉が少しにじんでいる。前の日に先生たちが引いたものだろう。トラックの内側に、まだ誰の足あともついていない。
開門と同時に、十人ほどの大人が同じ方向へ歩いていった。走る人はいない。走らないけれど、みんな早足だ。俺もその一人だった。
本部テントの斜め後ろ、三年生の入場口が見えるあたりにシートを敷いた。紗和が去年、ここがいいと言っていた場所だ。
敷いてしまうと、やることがなくなった。
腕時計を見た。七時四十二分。開会式まで、あと一時間以上ある。
隣のシートの父親が、ペグでシートの角を留めていた。なるほど、と思って見ていたら、目が合って、軽く会釈された。来年は俺もあれを持ってこよう、と思った。たぶん忘れる。

去年の今ごろ、俺は家にいた。
紗和と子どもたちが先に出て、俺は洗い物と、忘れ物の確認と、それから朔の帽子を持って追いかけた。何時にどこへ行けばいいのかは、そのつど紗和に聞いた。
次なに、と俺は何度も聞いた。
紗和はそのたびに答えてくれた。次は徒競走、そのあと演技、お弁当は十一時半。よどみなく答えが返ってくるので、俺はそれを便利だと思っていた。便利だ、と思っていたことが、いまは少し恥ずかしい。
答えられるということは、その全部が、あの人の頭のなかに入っているということだ。
仕事なら、すぐに分かる話だった。一人しか知らない情報があるプロジェクトは、その人が休んだ日に止まる。俺はそれを、十年、口を酸っぱくして言ってきた側だ。
家では、止まらなかった。紗和が止まらなかったからだ。
朝の校庭で一人で座っていると、そういうことを考える時間がたっぷりある。
八時五十分ごろ、シートの向こうから、紗和と子どもたちが歩いてきた。朔が先に走ってきて、靴のまま、シートの真ん中に飛び乗った。
その少し前、ポケットのなかでスマホが震えていた。九時四十分、東門から入ります。義母が自分で書いた予定に、着きましたという印がついていた。
迎えに行こうか、と紗和に聞いたら、いらないと思う、と返ってきた。
実際、義母は迷わずにやってきた。正門の列を避けて、東門から、三年生の入場口のほうへまっすぐ歩いてくる。折りたたみの椅子を二つ、両手に持っていた。
「一つは紗和のぶんね。去年、立ちっぱなしだったから」
紗和が何か言おうとして、やめた。
三年生の徒競走は、九時五十分に始まった。
茉央は五番目の組の、三コース。スタートの合図で、少し遅れて出た。それでも最後まで腕を振って走って、二着でゴールした。
ゴールのあと、こちらを探して、見つけて、手を振った。手を振り返したのは、俺と、紗和と、義母の三人だった。
十時半、朔のかけっこに付き添って、入場口まで連れていった。
園児のかけっこは、距離が三十メートルしかない。それでも朔は、ゴールの五メートル手前で立ち止まった。何かあったのかと思ったら、観覧席のほうを向いて、大きく手を振っていた。後ろから来た子に抜かれても、まだ振っていた。
係の先生に背中を押されて、朔はようやくゴールした。参加賞の鉛筆をもらって、走って戻ってきた。

十一時からの団体演技は、紗和が前のほうで見た。義母が、椅子に座ったまま写真を撮っていた。あとで見せてもらったら、半分は空と地面が写っていたが、三枚だけ、茉央の顔がちゃんと写っていた。
十一時半、お弁当。
義母のおにぎりと、卵焼きと、唐揚げ。紗和が作ったウインナーと、切っただけのトマト。子どもたちは唐揚げから食べた。
水筒の麦茶は、もうぬるくなっていた。氷を入れてきたはずなのに、朝から日なたに置いてあったせいだ。ぬるい麦茶と、砂ぼこりの味。運動会の味は、たぶん毎年これだ。
昼のあいだ、風が一度強く吹いて、隣のシートの紙皿が飛んだ。朔が追いかけていって、拾って返した。
午後の部が始まる前、義母が言った。
「今年は、みんな落ち着いてるわねえ」
紗和は、笑っただけだった。
午後は、四年生以上の騎馬戦と、全校のダンスと、紅白リレーがあった。茉央のクラスは応援席で立ち上がって、ずっと手拍子をしていた。朔は途中で飽きて、シートの上で靴下を脱いで、また履いた。
リレーのアンカーが最後に一人抜いたとき、校庭全体が一度に声を上げた。義母が「あらあら」と言いながら、椅子から少し腰を浮かせていた。
三時に閉会式が終わって、荷物をまとめて、四人と一人で校門を出た。
義母は駅まで一緒に歩いて、電車に乗って帰っていった。朔は途中で眠くなって、俺の背中で寝た。茉央は、二着だった話を三回した。
家に着いて、シートの砂を払っていて、ふと気がついた。
今日、俺は一度も「次なに」と聞かなかった。
聞かなくても知っていたからだ。七時半に出て、九時に開会式、九時五十分に茉央、十時半に朔、十一時半に弁当。全部、木曜の夜に自分で書いた。書いたから、覚えていた。
紗和は台所で、水筒を洗っていた。
「来週の月曜、代休だぞ」
「知ってる」

知ってる、と返ってきたのが、少しくやしかった。
