耕平の視点

七尾くんは、まだ知らない

最近、定時で上がりますよね、と後輩に言われた。なんもない、と答えてから、それは正確ではないな、と思った。半年前まで、俺は八時まで会社にいた。忙しかったからだと、自分では思っていた。

夕方のオフィスで、帰り支度をしている父親と、机の横に立って話しかけている若い後輩社員

 金曜の夕方、七尾が俺の席まで来て、モニターの横から顔を出した。

「先輩、最近、定時で上がりますよね」

 時計は六時十分だった。厳密には定時ではないが、七尾の感覚ではそうなのだろう。

「上がるな」

「なんかあったんすか」

「なんもない」

 なんもない、と言ってから、それは正確ではないな、と思った。

 七尾は入社三年目で、独身で、週に二回フットサルに行っている。悪気なくまっすぐ聞いてくるところがあって、それで何度か助けられたこともある。

夕方のオフィスで、帰り支度をする父親に「先輩、最近、定時で上がりますよね」と話しかける若い後輩社員の2コマ

 半年前まで、俺は八時か九時まで会社にいた。

 帰ると子どもは寝ていて、台所には洗い物が少し残っていて、紗和はリビングでプリントを見ていた。忙しいから遅い、と自分では思っていた。

 いま思うと、少し違う。仕事が終わらなかった日もあったが、それと同じくらい、家に帰っても自分の出番がどこにあるのか分からない日があった。分からない場所にいるより、分かっている場所にいるほうが楽だ。会社は、俺にとって分かっている場所だった。

 家のことを何も知らなかったわけではない。運動会がいつかは知っていたし、朔が熱を出せば迎えにも行った。ただ、知り方が「聞けば分かる」だった。

 聞けば分かる、というのは、聞くまで分からない、ということだ。

 いまは、来週の金曜に茉央の作品展の締切があることも、木曜に朔の身体測定があることも、聞かなくても分かる。分かっていると、水曜に打ち合わせを入れていいかどうかを自分で決められる。決められると、残る日と帰る日を自分で選べる。

 仕事が減ったわけではない。残る日は残っている。ただ、残る日を自分で決めているだけだ。


 そのあたりのことを、七尾に話してみた。

 半分くらい話したところで、先輩風が吹きそうになったので、途中で止めた。俺が偉そうに言えることは、この件に関しては一つもない。

「でも、それって」と七尾が言った。「奥さんがやってたのを、先輩がやるようになっただけじゃないすか」

 俺は少し黙った。

 この男は、ときどきこういうことを言う。

後輩が「奥さんがやってたのを、先輩がやるようになっただけじゃないすか」と言い、言葉に詰まる父親

「……半分は、そうだな」

「半分すか」

「残りの半分は、置き場所が変わった」

「置き場所」

 うまく言えなかったので、言い直した。

「仕事で言うと、議事録だ」

「議事録」

「打ち合わせで決めたことを、誰かの頭にだけ置いておくか、書いて残すか。決めた内容は同じだろ。でも、書いてないほうは、あとで必ずもめる」

「もめますね」

「家も同じだった。十年、議事録を取ってなかった」

 七尾が、へえ、という顔をした。分かったような顔ではなかった。

「量は減ってないんだ」と俺は言った。「書き出すぶん、最初はむしろ増えた。減ったのは、あいつが一人で覚えてる量だけだ」


 俺は十年、案件の情報を一人の頭に置くな、と言ってきた側だ。

 新しく入った人間には、必ずその話をする。誰か一人しか知らないことがあると、その人が休んだ日にプロジェクトが止まる。だから書け、共有しろ、と。

 家では、止まらなかった。紗和が止まらなかったからだ。

 止まらないものは、問題に見えない。それが、家でだけ十年気づかなかった理由だと思う。仕事なら、誰かが一度休んでくれるから気づける。


「俺、まだ全然わかんないっす」と七尾が言った。「結婚もしてないし」

「わかんなくていい」

「そういうもんすか」

「三年前の俺も、わかってなかった」

 七尾はそれを慰めだと思ったらしく、笑って自分の席に戻っていった。慰めではなかった。本当に、わかっていなかった。

 六時半に会社を出た。

 駅のホームで、来週の予定をひととおり見た。金曜、茉央、作品展の作品しめきり。その下に、小さく但し書きがついていた。

 紙ねんど、家で用意。

 紙ねんどがどこで売っているのかは知らない。ただ、それは調べれば分かる。調べれば分かることは、もう怖くない。

夜の駅のホームで、スマートフォンの来週の予定を見ながら少し笑っている父親

 電車が来た。

家野家メモ

  • 家の予定を「聞けば分かる」状態にしておくと、聞くまで分からない。先に見ておける形にするだけで、仕事の入れ方が変わる。
  • 書き出しても、家事の量そのものは減らない。変わるのは置き場所で、どちらが見てもいい・どちらが動いてもいい状態になる。
  • 帰る日と残る日を自分で選べるようになるのが先で、早く帰ることそのものが目的ではない。